「おとな」になりたい?



「いいなぁ、ママ」と4歳の娘が言った。「なにが?」と聞くと、キッチンカウンターに右腕を投げ出し、これまたカウンターに右ほっぺをくっつけながら足をブラブラさせた彼女が言いました。「“おとな”だから」えっ?そ、そうですか?と、わたしが驚いている間に、さらにこう言いました。「わたしも早く“おとな”になりたいなぁ〜。」 


どういう意味で言ったかは、わかりません。けれども、わたしは何となく誇らしい気分になりました。おとなとして、羨ましがられることが、めっぽう少ないと感じる昨今だからなのか。はたまた、おとなは、子どもからうとまれたり、軽蔑されたりすることがある中、褒められた気になったからなのか。 


そういえば、「あんなおとなになりたくない・なるもんか」というような話をよく聞いたことがある。「おとなになりたい」と言わしめたのは、結構自分の生き方が評価され、憧れられるものだったということか。 そしてわたしは、昔、自分が子どもの頃、大人になるのが嫌だったことを思い出しました。あの嫌悪感は、結構強かったなぁ・・・ということは覚えているけれど、何がどう嫌だったのかは、残念ながら覚えていない。 


「星の王子さま」も、おとなたちを風刺していたっけなぁ。また、尾崎豊に代表されるような歌の世界では、大人社会への常なる批判というのがあったっけなぁ。そういうのを比較的若いうちに聞いていたから、大人に対する批判があるのが普通、というイメージが強いのかもしれない。けれど、書いていて気づいた。あれ?最近そういうの、あまり聞かないようになった気がする。 


話は変わるけど、最近のお母さんたちって、わたしが子供の頃のお母さん像とこれまたずいぶん違う。わたしの母親のイメージは(もちろん昭和)エプロン(または前掛け)をしていて、ポケットには“ちり紙”(ティッシュじゃない)がいつも入っていて、手には輪ゴム(髪留めではなく、生ゴム)をはめている。これは、わたしが当時の母を思い出しているだけかもしれないんだけど、多かれ少なかれ、昭和の母と、今の母親たちは、まったく違う。 今は、子連れではない女性だけで歩いている姿を見ていると、子供がいる人なのかどうかは、まったくわからない。ギャルやおねえちゃん風のお母さんもいるもんね。 


ここまで書いて気づいた。そうか。日本には、「役割としての」大人がいなくなったんだ。 


そういえば「モラトリアム」という言葉も、『就職が決まって髪を切ってきた時、もう若くないさ、と、君に言い訳したね』という歌詞の言葉の意味も、今の時代では通じなくなったのだ。(読んでいる方の、どれだけがこの歌詞を認識できるか自体、自信がありません。) 


ということは、いいか悪いか別として、大人にならなければいけない社会、無理やり「これまでの自分」と「これからの自分」を“別物”としなければいけないような、自己の分離をエスカレーター式に経験する社会ではなくなってきた、ということか。そう考えると、なんだか、昔より随分社会はマシになったかのような気もします。 


 考えがあちこち行きましたが、シンプルにいうと「早くおとなになりたい!」と子どもに思われるようなおとなでありたい、または、社会であって欲しい、と思うわけです。 


ところで、私がおとなになって(ここでは、就職し、自活し、親元を離れた、という定義です)一番嬉しかったのは「アイスクリームをいくら食べても誰にも注意されないこと」を噛み締めながら夜中にアイスクリームを堪能している時間でした。しょーもない。けれど、これは本当におとなになってよかった、と今でも感じることの一つです。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

なんにせよ、おとなになることに希望を持てる社会にしたいですね。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

0コメント

  • 1000 / 1000