「涙の数だけ強くなる」のウソ


「涙の数だけ強くなれる」って、あれは嘘だ。


涙をながすような悲しい出来事、悔しかった出来事、寂しかった出来事、そういう経験をした後には、たいてい二つの道がある。 


一つは、「二度とこんな思いをしたくない」と決心めいた思いから、そうならないように気をつける場合。これは、気をつける・努力するということもあれば、そのようなことにもう近づかないということもある。「転んで痛い思いをしたから、歩いているときは、つとめて前を見て歩こう」というのは、そういうケース。一方、「転んで痛い思いをしたから、もう道を歩くのはやめよう」というように、痛い目見たから“もう近づかない”と決心したケース。 


気をつけようというのは、経験から知恵が産まれたみたいな話だから、これは強くなれるほどではなくても涙の経験は、活かされているかもしれない。けれども、もう近づかない、という決心は、いつもいつもだと、どんどん行動範囲がが少なくなるだけなんだと思うんですよね。傷つくことを恐れて、涙の原因を避け、防衛的になり、そういう状況(人間関係や、恋愛、商売、etc・・・)を避けるようになるいうのは、結構あるわけです。こうなると、人生の幅はせばまり、最後はどん詰まり。「出歩かないから外からの悪いことは避けられる」かもしれないけれど、いいことも受け取れない。 


涙の経験の顛末(てんまつ)は、たいていこの二つのケースに収まると収まることが多い。でも、このいずれも「涙の数だけ強くなる」というニュアスではない。 


じゃあ、涙の数だけ“強くなる”というケースって、どんな場合だろう。


涙に至った理由は、それぞれだろう。幼い子どもがお店で「あれがほしい、買って〜!」と泣くように“思い通りに行かせるため”に涙を流すケースから、長いストレスや、深い悲しみの末に流す涙まで。 


どのようなケースでも、涙を流した本人が意識的にでも無意識でも「わたしがこんな風に感じたのは、一体どうしてなんだろう?」というようなことを、どこかで感じたり、考えたりした場合、他の「たいていの二つのケース」とはとは別なことが起きるような気がする。 


「もしかして、わたしは彼に謝らせるために涙を見せたのかしら・・・」とか、「あんなに信用していた部下から裏切られたと思ったけど、そういえば仕事のやり方について、あいつらに相談したことも、彼らの意見や気持ちを聞いたことも、これまでなかったなぁ。全部俺が一人の独断で決めていた。それって、俺が人のことを信用していなかったってこと・・・裏切りは、俺からしていたことだったのかも・・・」とか、こんなことが起これば、これが「強くなった」ことになるのではないだろうか。 


ひとが「強くなる」というのは、他の人や環境・状況のせいではなく、自分に帰結して、その「痛み」と思ったこと・感じたことを通し、自分を知ることができた時、なのだと思う。 


それは「自分の人生を生きる」ひとが、「自分の感情に責任を取る」ということをしたとき、得られるもののような気がする。 


こういう感じになると、涙はパワーを取り戻すきっかけとなる。涙自体に意味があるのではなく、涙の経験を自分の理解や、人間理解につなげられた時に「涙の数だけ、強くなれる」と言えるんじゃないだろうか。 



あ、ここまで書いて、もっと単純で一般的な定義を思い出しました。体育会系・技術習得レベルの場合。「試合であと一歩のところで負けた。悔しい!もっと練習して次は勝つぞ。」これは、単純にバネの法則。そんな時は「よし、そうだ。悔しかったら次は勝て!」でいいではないですか。しかし、このケースでも、次に勝つ人は、やっぱり「どうして負けたのか」って、自分を知るプロセスにこの後、入っていくよね。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

最近、わたし自身がよく泣くので、こういう違いを感じています。 


ザ・ライフアカデミーでは、こういうことを自分ごとで体験する場を提供しています。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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