感情と、”いい状態”の関係

感情のひっかかりによる時間と効率のロスをあなどってはいけない。 


最近、わたしは自分の“感情的な動き”をよく観察している。観察しているからといって常に平安を保っているというわけでもない。感情が動くから、感情の動きの観察になるわけですし、動きがあるからこそ、いろいろなことに気づくのです。 


わたしが心理学を習っていた先生が、いつも口を酸っぱくしておっしゃって居たことに、こんなことがありました。「(人間の精神的成長は)ある程度のところまで来たら、そこから先は、本当に毎日の修行の積み重ねなんです。もう、本当にそれしか、ないんです。」このことは、人間の「精神的成長モデル」の話で語られることもあれば、公開セッションをした後の「解説」で話されることもあった。 


先生の言う“修行”とは、ひとが精神的成長のためにする“小さな積み重ね”のことであり、そのことで中長期的には確実な成長へと繋がるものことです。一例を挙げると、センタリングやマインドフルネスというような体や気持ちの状態に“気づき(awareness)”を持つとか、またはなにかリチュアル(儀式)を決めてそれを継続的に実行すること、例えば神社でも仏壇があってもなくても良いから祈るとか、仏典や聖書や学びなどで熟達するべきことにエネルギーをちょっとずつ注ぐとか、そういうことを示していました。 


わたしが自分の感情の変化の観察を始めたのは、今年の春になってから。ある日、それが必要な事態になった、というだけで、何か気張って「よしこうするぞ!」と思ったわけではないんです。 


それが始まって、トコトンわかったことは、わたしたちの思考と感情は、本当にとどまることを知らない、ということです。そして、内的状態が良くない時に外的なことだけ先走って決めたりしても、ブレているので、そのような状態で決めたことは、その後の広がりがなかったり、実行しようと思った時に難しいと感じたりする、ということなどでした。 


この観察を通して、わたしはわたしがいかに感情的に動きが激しいのか、ということがわかりました。さらに、感情的にブレがある場合は、「急がば回れ」が原理原則だ、ということもわかりました。感情にブレがあるときは、そのまま物事を進めずに内的にいい状態になってからいろいろなことを進めて行くことが、結局は近道ということになりそうだ、ということがわかった、ということです。 



ところで「わたし(俺)は精神的にタフだから、感情に左右されることなんかないよ。」というひとが少なからずいらっしゃいます。昔のわたしもこのジャンルに属して居たのですが、こうういケースのほとんどの場合は「感情を切り離している(または、抑圧している)」だけで、感情がないわけでも、感情をコントロールできているわけでもないんです。ただ、起こっている感情の動きを感じることを禁じているので、抑えていると思われているということです。 


醗酵しているものにフタをかぶせるといつか溜まったガスで大爆発が起こるように、思わぬところで問題を起こしたりします。オナラを不自然に我慢したら腸に負担がかかるのと同じことです。ストレス発散の名の下に、飲み過ぎ・食べ過ぎ・異性とのもつれた関係などなど、いろいろなところにその影響は及んで居ます。以前、実はわたしもその一人でした。自分には感情にまったく問題がないと言い切っていました(恐ろしや〜〜)。「感情」を論じるなどは、「おんなこども」のものだと、ばかにしていた部分もありました(女なんですけどね・・・)。 


さて、朝目が覚めた時から感情が波立っていることもあれば、クサクサしている時もあります。そんなときは、朝一から観察スタートです。それはどこから来ているのかなあ、と振り返ると昨日の引っ掛かりを引きずっている場合もあれば、夢の感情を引きずっている場合もあります。いずれにせよ、歪んだ気持ちになっているということは、わたしのものの見方に歪みがあるということ。この部分をクリアにさせてから物事を始めると、迷いがなくなり、良い結果が出ているように思います。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。

自らの内面を見る勇気のあるものが、永続的な外面の成功を築いていく。 


ザ・ライフアカデミーでは、こうした感情を含めて状態を整えていくことを学びます。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

0コメント

  • 1000 / 1000