ハッピーエンド「そして、幸せに暮らしましたとさ。」への道

「そして、幸せに暮らしましたとさ。」というフレーズを、人生で、何回、聞いたり読んだりしたことだろう? 


ふと、今日気づいたのです。それが必ず”と言っていいほど「おじいさんとおばあさん」なんだ。(海外もの〜厳密にはディズニー〜だと、お姫様と王子様もバリエーションだけど・・・) 貧乏でも心が綺麗で勤勉で優しいおじいさんとおばあさんが、神仏(またはそれに類するお地蔵さんとか)を敬ったり、動物や“か弱い”存在に親切にしたり、親のない子を我が子のように育てたり、と、そのような道徳的な行動をした結果、小判や金銀財宝によって報われる、というお話しで、ここでいう「幸せ」とは、金銭的な安定です。 


疑問その一。どうして、いつも「おじいさんとおばあさん」なんだろう? いつか報われる、というニュアンスを残しておくことが、民衆に “生きる希望を与える”からだろうか。それとも、若者が主人公だと、その後、“ロクに働かなくなり”本人のタメにならないという配慮からだろうか。 


疑問その二。どうして、いつも「幸せに暮らしましたとさ」というのが、経済的安定とセットなんだろう?これは、愚問かもしれないけれど、あえてチャレンジしたい。お金だけが、幸せかい?お金がなきゃ、幸せじゃないのかい? 


とは言え、世界の中でも最も豊かな国のひとつである今の日本においてさえ、ひとびとは「老後」を心配し、「食べるために」という理由で働きそれを維持しようとするくらいですもの、ましてや、社会保障や年金などない “むかしむかし”のお話しであれば、民衆で“生活に困らない”経済力があるというのは、今でいう“3億円ジャンポ宝くじに当たるようなもの”に値するのかもしれません。それに、もともと二人は精神的に幸せだったことが予想されるので、あとは経済的な安定が加わったという意味で、心も財布も満たされた、ということで「幸せ」ということだったのか。 


でも、なんとなく、わたしはこのストーリー展開が好きになれないでいました。どこか、元々危なっかしい暮らしで、もしこれが起きていなければ一体おじいさんとおばあさんはどうなってしまったのだろうか?という“危うさ”を感じるのです。それに、もし、その善行を多なった対象(お地蔵さんや、ネズミや、妖精)がそれに気づいてくれなかったら?とか、彼らに、お金を引っ張ってくる力がなかったら?とか。 


ところが、例外的なお話しがひとつあります。それは、「わらしべ長者」です。主人公は、「おじいさんとおばあさん」ではなく、まだ働き盛りのシングル男性。観音様にお祈りをしているうちに寝入ってしまい、夢で観音様から「最初に掴んだ物を離してはいけない」と言われ、目覚めて歩き始めると転んでしまい、ちょうど手に握ったのが「わら」だった。価値のない「わら」を持っていても仕方がないので捨てる・・・のが“普通”だと思うのですが、夢のお告げの通りにし、捕まえたトンボをそのわらでしばって持って歩いたりなんかして。そう、楽しんじゃっているんですよね。そうして、それを取り替えて欲しい人が現れたら持っているものと次々とトレードを繰り返し、最後は、大金持ちから家をもらった、というようなお話です。 


わたしは、幼い時からこのお話しが好きでした。清く貧しい余命いくばくもない老人がラッキーにも報われるという、危かしくて確率が低そうな話よりも、これからの人生のやりようによっては、希望を与えてくれるという、実に実用的でタメになる話ではありませんか。 


働き盛りのシングル男子というのも、普通でいい。さらに、お告げを聞く、というのは直感やインスピレーションを信じる、感性の良さを表している。そして、何よりもいいのは「転んでもただで起きない」精神です。更に言えば、「使えるものはゴミでも使え」の精神と「楽しみながら創意工夫の暮らし」の実践。そして、何よりも「執着せず」に「ニーズかあるひとに、持っているものを与えた」ことが豊かさを増大させる大前提となっている。「与えるものが、受け取る」の原則そのものだ。そうしたことから、この青年であれば、その後もいいようにやっていけそうであることが予測されるので、「若いうちに宝くじに当たって使い方がわからず破産する」というリスクもなさそう。 


わらしべ長者のように素直で、アンテナが張っており、気前よく、流れに乗って、生きたいものです。 



今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

「転んでもただでは起きない」は、“複利”の精神で負け知らずですね。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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