おとなの味と、春

採るのも、摂るのも、好き。春の到来を知るひとつに、店先に並ぶ山菜を見つける、ということがある。「もうこんな季節?」と、大抵びっくりすることが多い。 


山菜は冬の間に溜め込んだ毒を排毒できる、という。ナチュラル・デトックス。 デトックス、という言葉が流行りだしたのはいつだろう。排毒という意味だけれど、その前提には「毒」が溜まっている、という考え方がある。「毒」かぁ。それは嫌だなぁ、毒が自分の中にあるなら、出したいと思うのが、人情というもの。 


ほろ苦い、えぐみがある、そんな山菜は“おとなの味。”何が“おとな”かというと、子どもの頃には食べられなかった、または、こんなもの美味しいなんて頭がおかしいに違いない、と思ったものを、美味しいと感じること。苦味、辛味、酸味などが強いお料理を堪能できる時だ。 



味には「甘味」「塩味」「酸味」「苦味」「うま味」の五味があると言われている。舌の表面にある「味蕾(みらい)」と呼ばれるブツブツとした器官でキャッチされ、「味覚神経」を介し、脳に信号が送られて味が“感知”される。 


この「味蕾」というセンサーが多ければ多いほど味覚を強く感じることができ、味に対して敏感になるらしい。この働きが損なわれると「味覚障害」(味がわからなくなる、本来の味と違う味を感じる、何も口にしていないのに変な味を感じる、など)になります。「味おんち」という言葉を聞いたことがありますが、それは意外と深刻な悩みなのかもしれません。 


さて、ここまではわたしが知っていたウンチクです。今回、新たにわたしが知った驚愕の事実がありました。それが、これです。 


実は、味蕾は成長するほど少しずつ減っていき、3〜40代になると、子供の頃の1/3まで「味蕾」の量が減るんだそう。子どもが、苦味・絡み・酸味など、刺激のあるものを嫌うのは、おとなよりも味を敏感に感じるというのが、その理由。 


ということは・・・“おとなの味”というのは、味蕾という受容体が摩耗して、味がわからなくなった結果、「気にならなくなった」だけ、ということか!成長したわけでも、熟達したわけでもなく、退化、いや、老化の副産物だったとは! 


わたしは軽くショックを受けました。そこで、さらに、ちゃんと調べてみることに。 もともと人間は本能的に甘味や塩味、旨味を好無もので、これは栄養成分の味だからだそうです。反対に苦いものや酸っぱいものや辛いものは、毒があるものや腐ったものを避けるために“本能的に”嫌うようにできているのだそう。 しかし、本能的に嫌っていた味も味蕾が減るに連れて刺激が和らぎ、同時に慣れてくることによって味覚が変化し、人によって好物へと変わっていく。つまり、経験や学習、記憶によって新たに得られる後天的な味覚ができる、ということに他ならない。 生臭かったウニ、苦いだけだのコーヒーやビール、酸っぱくて辛いキムチ、えぐみの強い山菜、強烈な匂いのするチーズ……etc. 


「味蕾」という受容体が減っても、「味覚」が変化し、豊かになった・・・ 


これは、わたしのテーマ「死ぬ前が一番幸せ」という、幸せの感覚に対して右肩上がりの人生を生きることにも、関連することだ、と、今書きながら、気づいた。 


肉体や機能が低下しても、逆に新たな感覚を学習し、機能させるようになることで、若い時よりもどんどん幸せになっていくことができる、ということだ。 


嫌いだったものが、ふと「あれ、これ美味しいかもしれない」と変わる瞬間は、発見であり、生物として退化や老化を通過したものだけが経験することができる美味なる世界。 ああ、良かった!やっと、おとなになって良かった〜、というところに帰着することができた! 


そして、これは味だけではない、やはり全ての受容体にある程度、共通して言えることだ、と確信が深まる。つまり、昔は嫌いだったもの、耐え難いと思ったものも、感じ方が変わり、そしてより美しい世界を広げることが可能だ、という。



今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

都会のひとにはわからないと思うけど、最近は(山菜探しで)キョロキョロしながら歩いてます。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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