クセになる感情

「なぜか、朝目が覚めた時から」ということもあれば、「いつものおきまりの」というものも。—わたし達は、かなりの率で朝起きた時に“気分”を感じています。でも、頭が回り出すと次第にこのことを忘れます。  


この“気分”というものは、あまり意識されていませんが、密かにわたしたちの日常を作るベースとなっている、というのがわたしの長年の観察結果です。女性のお化粧でいうと化粧下地、まさにベースファンデーションのようなもの。それがくすんでいると、どんなにその上に塗りたくっても・・・どこか暗い感じがしたり、清潔感に欠けたり、というような。 



わたしは以前、人間誰もが「いい気分でいたい」と願っている、と思っていました。でも、実際は、違うことがずいぶん後になって、わかりました。よく考えると、幼い時にはそのことに薄々気づいていたことに気づきました。それは、大人たちがする「不思議な“自慢大会”」のことでした。 


例えば、病院でお年寄り連中の、どこが悪い、ここが痛い、という話。ランチの席の奥様方がするご主人の悪口とも、愚痴とも思えるような話題。もともと気分が良くなるようなことではないはずのことですが、不思議と“わたしの方がいかに大変か”ということに価値があるかのように、話しているのを、誰もが聞いたことがあるのではないか、と思うのです。 


「病気自慢」「不幸自慢」「貧乏自慢」——こうしたことをすると、一瞬ストレスから解放された気になったり、仲間を得て心強く感じたりします。または、勇敢にもその話をオープンにすることで“こんなことは、大したことないんだ”と思えるようになる効果を感じることも。 


実は、そうした話をする時、ひとは、そのベースに“現状を変える力や気力が自分にはない”という「低い自己価値」や「無力感」「諦め」「惨めさ」そして、「恨み」「被害者意識」を持っている場合が、とても多いのです。 


それをまともに感じると嫌な気分になるので、それを感じなくさせるためにも、そういう話しをするわけです。けれども、もちろん根本的に解決しようという意図がないため、そのこと自体の状態や、それに対する自分の認識や姿勢が変わるわけではなく、“現状が続き”ます。つまり、得られるのは「一瞬の」表面的な慰め。 


わたしも心配ごとや不安があり、それを自分で処理仕切れないと感じていた時や、文句があっても現状を変える真剣な気持ちがなかったとき、つまり不満タラタラながら、現状維持をしようと思っている時には、こうしていることが多々ありました。 


他にも、わたしは“3軒目のバー症候群”(今、わたしが思いついた症候群です)だったことがあります。これは、わたしだけでなく、世の中の「おっさん」連中が結構していることです。普段頑張っている、“クール”な、“仕事ができる”、けれども“ハートは熱い”男(わたしは女ですが)の本音や過去の話を、ちょっとだけ話しても構わないという場所を、なぜか3軒目のバーカウンターで、誰かと“サシになった時”にポロっと、または、ボソッと話す、というもの。そこで、二人の関係は男女問わず妙に「親密」になっていったりすることもあります。 


この時に起こっていることは、“普段、誰からも理解されない自分”のチラ見せで、あるのは「孤独」「寂しさ」「寂寥感」「影のある」「ハードボイルド(と言ったらかっこいいですが、つまり=)やせ我慢」「背中で語る(と言えば格好がつきますが、これも=)自己表現ができない未熟さ」などが存在していたりします。 


問題なのは、こうした「 」で書いたような感情を、本人は持っていることさえ気づいていないこと、そして、その感情は知らないうちに癖になることです。そう、その感情に「中毒」になっていて、それが自分(または自分の性格)だと思い込んでしまうことです。そうすると、その気分の影響をいつも受けています。 


「どうして気分が晴れないのだろう・・・」 そう感じることがあれば、昨晩言ったことや、したことを振り返るといいかもしれません。欲しくないのに、癖になっている感情に浸っていたかもしれません。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

人生のトリックを知るのは一つ、それを知って、清々しく生きるのはまた次のステップ。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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