自分のしごと・彼(彼女)のしごと・神のしごと

すべての苦しみや困難の根元に、いくばくかは”その問題”がからんでいる。と、わたしは思っています。その問題とは「これは、誰のしごとなのか?」についての混乱と誤解。 



全ての物事は、三つに分けることができます。 「自分のしごと」 「彼(彼女)のしごと」 「神のしごと」 −この三つを見わけること、そして、「自分のしごと」であるなら自分がやりきること、「自分のしごと」でないなら、自分ごとのように扱わないようにすること。 


前回の記事でほんの少し触れたことですが、これがあまりに大事なことなので、続けてそのことについて書きたい、と思います。 


心配や不安というのは、「“自分のしごと”が何か?」を忘れたときに往々にして発生します。 


わたしが娘を授かるまでの5年間、子どもを望んで努力を重ね、ときには自分を責め、世間を恨んだこともあった、という話を書きました。その頃のわたしは、子どもを授かる、ということをかなり「自分のしごと」だと思っていたのです。でも、最終的に何の努力もなく自然妊娠したときには、「自分のしごと」と「神のしごと」をスッキリ分けて考えていました。 


「自分のしごと」とは、“自分しかできない”し“自分”がするべきことです。 


当時のわたしの場合、「身体のメンテナンス」と、心から「子どもがいても幸せ。子どもがいなくても幸せ」というように「自分の人生の“在り方”を決めた」のでした。この二つは、いずれもわたしでなければできないことだったので「自分のしごと」です。 


一方、「・・・ということなので、あとは神様お願いします。」と、残りのすべての采配を「神のしごと」として神に渡しました。 更に、わたしのお休みの間に仕事をお願いした方がいて、そのことは「彼(彼女)のしごと」として信頼してお願いしました。 そのため、「自分にできること=自分のしごと」に集中し、あとは「ひと(厳密にいうと、神とひと、ですが)のしごと」と割り切ったことで、苦しみがない状態になっていたのでしょう。 


よく「本人がその気にならないと、無理」という表現をします。(たいていは、勉強や禁煙のはなしだったりしますが。)そういうとき、周囲のひとがいくら騒いでも、ことは発展しません。なぜなら、それは「彼(または彼女)のしごと」だからです。 


そんなときの周りのひとのしごととは「彼(または彼女)のしごとをさせるようにすること」ではなく、本人が自分ごととして「彼(彼女)のしごと」に取り組めるようになるまで、「“自分のしごと”をしながら、愛を持って繋がること」なんだと思います。そして、それが難しいときは同時に「神のしごと」であると理解し、神にそれをしてもらうのです。神にお任せをしたり、お願いをしたり、他者に助けを求める。これが周囲のひとにできる「自分のしごと」です。 


受験生を抱えていたり、家族の健康や成功を祈ったり、仕事のメンバーを育てようとしたりしているときに、苦労を感じたり、思い通りにいかないときは、特に「彼(彼女)のしごと」を「自分のしごと」と“勘違い”して苦しんでいないか、見直してみてください。 


また、自分の仕事をもっと発展させたいと願っているのに思うように進んでいないなら、それが本当に「自分のしごと」かどうか、見直してください。 


「自分のしごと」とは、力が入り、心が沸きたつもののはずです。それがない場合は、どこかから・誰かからの借り物なのかもしれません。 


「自分のしごと」とは何か? 

「自分が位置につく」とはどういうことか? 

それがわかって、それ以外は 

「彼(彼女)のしごと」か、 

「神のしごと」だ、とわきまえる。 


そうすると、心の中の静けさが、出来ます。 水の中に石が投げ入れられても、その影響で自分の小舟が沈みそうになることもなくなります。


Scerenity Prayer(ニーバーの祈りというのは そういうことを言っているのではないでしょうか。


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

ザ・ライフアカデミーでは(ちょっと宣伝)「人生のしくみ」として、こんなことも実践的に扱います。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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