季節の料理と、作られる”記憶”
いまごろの季節の料理、というと何を思い出しますか?
そう聞かれて「鍋」と答えるのは本州のひと。
北海道出身のわたしは、シチューやスープを思い浮かべる。
雪が降る寒い外を家路につく。
そこに、
暖かい家と、
明るい灯、
そして、温かいシチューがある。
そうしたときに、これ以上の幸せがあるものか、と思ったりするものだ。
そう書いていて妙なことに気づいた。
わたしは小学校ではホワイトシチューが嫌いだった。小学校1年の時に、給食のシチューが食べられず、先生から居残りを命じられ、掃除当番が掃除をして埃が舞う教室の中で食べた記憶がある。 そして、いつからシチュー好きになったのか、よく覚えていない。
もしかしたら、このイメージは、冬になるとTVのCMで流れる食品メーカーのコマーシャルのイメージなのかもしれない・・・と、いま書きながら思った。でも、そういうことって、実はすごくよくあるとおもう。
“人間のしくみ”のなかで、実は“自分の体験”なのか、“どこかで見たり聞いたりした体験”なのかは、あまり違いがないという。 そして、そのどちらのイメージだったとしてもそれがリアルなものとして記憶されると“自分の体験”として、残る。
それが心地好いイメージであれば、その体験を求めるようになるし、反対なら、その体験を積極的にしようとは思わなくなる。
そのようにして、文化というものは共有され、ひとびとの “集合意識”といわれるものは作られている傾向があるのではないかな。
例えば、10年以上前からわたしはシンデレラや白雪姫は、百害あって一利なしの物語だと思ってきた。というのは、女の子が白馬に乗った王子様がいつか自分を見つけに来てくれて、その後はメデタシメデタシ・・・って、そんなことを思っているから、男性に王子様を投影して、どれもダメだと思ったり、“青い鳥”症候群のように「いつかわたしも、どこかにあのひとが・・・」と夢見るだけになるのだ、と。
女性の幸せは、女性側も男性に対して理解やサポートをすることがあるからこそ、互いのパートナーシップが育つのであって、棚からボタモチという発想では、継続して成長する関係性ではないではないか、と。(わたし自身も苦労の挙句に、シンデレラ症候群を抜けることができたからこそ、の体験ですが。)
ところで、季節の料理。
おとなになってから、
オデンと熱燗もレパートリーになった。
少々、異国情緒を加えるなら、 パチパチと暖炉で薪が燃える音を聞きながら飲むホットワインもいいな、と思う。
こうしたものを好きになる理由や、きっかけは、あまり、重要ではない。それが幸せに寄与するなら、なんの問題もないから。(シンデレラは、だから、そういう意味で本当に、問題です。笑)
今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。
なにはともあれ、美味しいものは、ひとを幸せにする。
0コメント