やってはいけないコーチング

またひとり“コーチング嫌い”の方と出会った。 


30代半ばで常によい成績を収める営業マン。 

 “コーチング”という名前だけは、知っていた。 

営業部全体で受けるその研修は強制参加。 

“強制”でも、受けて良かったと感じた研修は 

過去にもあったし、受ける前は中立的だった。 


研修を受け終わって辟易とした。 

スキルを学べて良かったと感じた半面、 

言葉を使った“ダマし的”感じが漂っていた。 

更に、上司が頻繁に使うので嫌悪感が増幅した。 


「上司が正しい答を知っているのに、

ぼくがそれを言うまで質問される、みたいな。」 


少しくちびるをとがらせながら、彼はそう言った。 


「上司が気に入る答えを言うまで、似たような

質問を繰り返すので、ウザいんですよ。最初から

答えがあるなら、最初からそれを言えっつーの。」 


その話を聴く限りわたしも全く同感だ、と言うと、 

彼はせきを切ったように、話し続けた。 


「傾聴っていっても、わざとらしくって。 

普段は全然部下の意見とか聞かないんですよ。」 


「上司のため・会社のため、というのがミエミエ。」 


スキルだけが“ひとり歩き”をする場合、 

こうした残念な感想が後を絶たない。 


コーチング以前に、 

コーチングをするひとの人間観や世界観がある。 


人間そのものをどう見ているか、 

利益を生むとはどういうことなのか、 

仕事を通して相手にどうなって欲しいのか、 

そういった、“考え方”や“姿勢”、“在り方” 

“スタンス”とか“フィロソフィー”ともいう。 

これらが違うと、全く別物になる。  


“使い手”の言葉以前の思いが、反映される。 


「相手の良い部分を開花させる願い」と共に、 

「相手を活かす手段」として適切に使うなら、 

相手の世界や可能性はかつてないほど、広がる。 


一方、 相手のためと言いつつ、 

「自分の利益や成果をあげる手段」と考え、 

「相手を“操作”するべき対象」と見ている場合、 

利用する側・される側の搾取関係になる。 


これは、コーチングに限ったことではない。 

どんなにいいものであっても、 

それを使うひとの在り方や考え方が、 

全く別の結果を、引き起こす。 


向いている”矢の方向”が、重要だ。


サッカーのサンフレッチェの名前の由来を聞い

たことがある。サンフレッチェとは、三本の矢

”三 frecce” という、日伊語複合の造語だ。 

毛利元就の「三矢の教え」を基にしているという。  


矢が”クライアントの成功”に向いているなら、

 “コーチ”と“クライアント”、それぞれが

バラバラの個人では決して出せない結果を、

 “コーチ、クライアント、コーチング”の三つで

出すことが出来るのだ。

それこそが、コーチングの「折れない結果」だ。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

その方はサッカーファンだったので、話は分かってもらえました。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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