自分の中の他人

「“自分の中の他人”に遊んでもらっている。」 

 そういう表現を見て、ちょっとドキッとした。 


何となくインモラルで、怪しげ。 

わたしはそう感じたのだが、全然違う。 


実は、これ、 

世界に名だたる文化人が語ったコト。 


横尾忠則さん(美術家)は制作のプロセスを 


「ぼくの中に、他人が無数にいて、 

その中の他人をステージにあげて、 

そこで何かやらせる、 

それをもう少し大きい自分が眺める。」 

 と語る。


 糸井重里さん(コピーライター)は、 

「自分の頭の中にいる他人に、 

遊んでもらったり、 

見てもらったり、 

文句を言ってもらったりしている。 

そういうことがいつも行われている。」 

 と言う。 


それを聞いた細野晴臣さん(音楽家)が、 


「(基本的に世の中は)天才がいっぱいいる。 

ただ、プロとそうでなく終わっていくひとの 

分かれ目というのは、

“表現の手段”を勉強しているかどうかということ。 


好きなことを自分で表現して、 

ああだこうだと、自分でやり合わなくては。 

自分の中に目があって、 自分に聞かせる。 

自分が判断して「もっともっと」と思う。 

そういう鍛錬がないと、表現が身につかない。」 


と、”自分の中の他人説”に肉づけをする。 


そして「ああだこうだと自分でやり合うのは、 

好きだからなんですけどね。」と全員が頷く。 


ワールドクラスの文化人たちに共通するのは、

「自分の中に他人」がいること、らしい。 


その「自分の中の他人」にいろいろとやらせて、 

吟味したり、 やり直ししたりして、 

アウトプットしている、らしい。 


つまり、“客体化”を楽しみながらすること。 

 ・・・これって、大きな違いを生みそう。


 “自分がこれをやった”という風に思うと、 

意外と不都合が多いかもしれない。 

失敗すると、もう、したくなくなったり、 

成功すると、勘違いして天狗になったり。 

良きにしろ、悪しきにしろ、 

結構な割合でエゴの肥やしになるような・・・ 


一方、“自分の中の他人”という風に思うと、 

意外と自由が利くのがわかる。 

全体像をとらえて楽しむことが出来たりする。 

それに、“おいおい、それ違うよ”という場合、 

多くの私たちは自分のバカさ加減を責めたり、 

罪悪感に苛まれてその後、動けなったりして、 

そんなところにハマって、終わるケースも多い。 

けれども、

 “自分の中の他人”に、まず遊ばせたなら、 

吟味して“やーめた”ってことも出来るし、 

逆に、楽しみの世界に昇華させることも出来る。 


 “自分”を主語にしない強み、っていうのが、

ここに、あるんだなぁ。と。 


“不器用さ”を、なんとかしたいと思っていた。 

とりあえず「自分の中の他人」に遊びがてら、

やらせてみようかな。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

好きなことは、好きじゃないことの10分の1の力で出来るってデータがある。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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