願いの力

願いの力、というものがある。 


1979年1月4日NHKドキュメンタリー。 

ブラウン管の向こうに見えた光景が、 

わたしの“願いの力”を発動させた。 


次の日もらったばかりのお年玉で、 

“三省堂コンサイス和英辞典”を買ったのは、 

小学校5年生なりの考えがあった。 


いちばん小さな辞書なら、 

いちばん簡単に英語が話せるようになる。 

そう思ったのだ。 


テレビで見たのはアメリカの大学生生活。 

「あんな大学生生活を送りたい。」 

だから、 

「英語が話せるようになりたい。」 

願いは、ただ、それだけだった。 


大人になってから何気なく受けたTOEICで 

950点をとったのだけど、実感がない。 

全く、勉強してないし。 

留学だって、高校時代の10ヶ月だけだし。 


わたしが“英語の勉強”をした記憶があるのは、 

小学校六年生の一年間ちょっと。 

努力した、と思えるのはそれだけだ。 


三省堂の和英コンサイス辞典を片手に、 

熱心に独学めいたことをするわたしを見て、 

両親が不憫に思ったようだ。 

英語の個人レッスンを受けさせてくれたのだ。 


才能というのは、 

だれにでも等しくあるものではない。 

そう実感したのは、初めてのレッスンだった。 

日本人的1から10の発音は出来たのだけど、

英語的発音が、どうしても出来なかった。 


20代の女性の先生は発音に熱心だった。 

手かがみを持って来て、 

舌の位置や、動かすタイミングを教えてくれた。 

でも、40分くらいで大きなため息をついた。 

「ふつう、小学生ならすぐできるのに・・・」 


でも、わたしはあきらめなかった。 

家で繰り返し1から10の練習を続けた。 

12歳年上の姉が、どれどれ、と教えに来た。 

姉は数十分練習につき合い・・・匙を投げた。 

「あんた、英語の才能ないわ。辞めな。」 


そんな様子だったのだけれど、

おめでたいことに、

わたしは落ち込んだりはしなかった。 

なぜなら、わたしには確信があった。 

そんなものは繰り返し練習したら、

いつかできるようになるんだから、

と、そう思っていた。


「こんなに出来ない子はいませんでした。」 

結婚前の最後の授業で、先生が母に言った。 

「そして、こんなに出来るようになった子もいませんでした。」 


わたしが1から10の発音を練習した回数は、 

おそらく千回はくだらなかったと思う。


多いとも、少ないとも思わない。 

わたしには、才能はなかった。

けれど、わたしの願いは変わらなかった。 

そして、そのためにすべきことは決まっていて、 

それをしただけの話だと思う。 


ところで、ほんとうに、その後は、これといった事はしていない。


“ある一定レベルを越えたら、

その後は、触れるくらいでも自然に成長していく”

なんでもそうなのではないか、というのが最近わたしが唱えている説だ。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

現実化のエネルギーでもっとも強いもののひとつは、“純粋な”願いの力、だと思う。 


Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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