繰り返しの「パターン」
気がついたら、横になっていた。
目覚めて、どこにいるのか一瞬わからないことがある。出張などでホテルに泊まっていて、けれどもそれを忘れて、いつもと違う部屋の雰囲気に焦ることがある。そんな感じに近いけど、今回は、もっと妙だ。ここはどこ?わたしは何をやっているのだろう?起き上がり、それが皆寝静まった日本への帰りの飛行機の中だと気づくまで、さらに数秒かかった。気分が悪くなりお手洗いに立とうとしたわたしは、立ちくらみを覚え「まずい、自分の席に戻らなければ」と思った次の瞬間、気を失ったのだ。そう、状況把握ができた途端、今度はダラダラと額から血が流れてくるのに気づき、それを手のひらで受け止めた。今回のモルディブ旅行の帰りの飛行機の中のことだった。
お陰様で眉間のパッカリ割れた傷も、頬のすり傷も、順調に治っていってきています。「行きの飛行機じゃなく、帰りでよかったですね」という、わたしのマネージャーの真希さんからのメールを読み、本当だなぁ、と思うけれども、今回は、それでは済ませられない事情がある。決心せざるを得ないことがあった。それは、もうアルコールを口にしない、ということだった。
わたしが気を失ったのは、初めてではなく、若い頃から何度かあった。こと2年前に出張先では大事故になり、救急車で運ばれ2時間の縫合手術が行われた。いずれの場合も、アルコールを飲んでいた。ある時はビールをコップに半分でそうなり、今回はコニャックを1.5㎝くらい飲んだだけ、だった。ワインボトル2本を開けても平気な時は、平気。量に関係ないのが、困ったところ。そこで、2年前には「クラっとしたらその場に座り込む」と、対策を決めたはずなのに、今回その対策も機能しないことがわかった。これは、もう、断酒しかない。払う代償が大きすぎるもの。
これは、わたし一人の話ではないと思って、書きました。“お酒を飲んで気を失い怪我をする”という話ではなく「繰り返し起こるパターン」について、です。
そう、ひとには、かならず「繰り返し起こしている・起こっているパターン」というものがあると言われています。繰り返し、とは、それが起きるのが、はじめてではない、ということです。それがいいものであれば、そのままでいいのです。でも、それが起こるたびに困っている、ということであれば、それに対策を持たなければ、どんどんバッド・スパイラルに巻き込まれていきます。そうして、「まずい、なんとかしなければ」と、気づいた時には、手遅れ(大きな犠牲を払うことになってしまった)か、そこから抜け出ることが、ちょっとやそっとではできなくなっている、ということも、ままあると思うのです。
ある方は、大恋愛の末、結婚しましたが、ご主人は感情的に抑えが効かなくなると暴力を振るうことがあり、耐えかねて子どもを連れて実家に戻りましたが、恐ろしい夢に未だにうなされることがある、と言います。ある方は、むしゃくしゃすると、甘いものを食べ続けてしまい気がついたら自分のことを好きになるのがとても難しくなるような体型になってしまった、と言います。ある方は「なんとなく過ごす毎日」にサヨナラをして、いろいろな学びをするのですが、どれもある時点まできたら「これはわたしのするべきことかしら?」と疑問を感じて中途半端に終わってしまいます。
いずれの場合も、他の人から見たら「大問題でしょう」と思うようなケースも、本人がそれを認識しなければ、それを変えることはできません。わたしとて「もっと早く(お酒は)辞めるべきだったのよ。」と言わるのですが、そう、辞めたくなかった事情があるからこそ、パターンになっていたわけです。わたし達は、不合理な、そういうものを持っている生き物なのです。
こうした「パターン」は、ことの大小に関わらず、わたし達を、ゆっくりと、けれども確実に、ある方向へと向かわせていきます。ふと気がついて、振り返ってみると、あまりにも長いことその道を歩んでいたことに、驚くようなこともあるかもしれません。でも、いい知らせは、わたし達は「まだ死んでいない」ということ。人間、死んでいないのなら、いつだってやり直しができるのです。
これまでを振り返り、過去からの「パターンを繰り返し起こしてきた道」が、はっきりと見える一方、未来を見た時に「パターンの延長線の道」が “ない”図。そんな図を描けたら、準備ができた証です。もし、それがなければ、そのイメージを作ってみてください。ちょうど、カタツムリやナメクジの歩みの跡のように、ネトネトとした(あるいは、キラキラとした)道が、過去から続いているけれど、今後はまっさらなところを歩めるようになるイメージで。
今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。
結婚式で乾杯のシャンパンくらい飲みたい、とも思うのですがね。
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