竹馬の友と「仕事の流儀」

“竹馬(ちくば)の友”という言葉がある。 

“竹うまに乗って一緒に遊んだ仲”という

幼なじみのことを言い表す言葉だけど、

わたしはなぜか“幼なじみ”よりもこっちが好きだ。 


友だちとの付き合い方や距離感はひとそれぞ

れだろうけれど、わたしの場合、一番古くから

の友だちでいまだに付き合いがあるのは、 

中学・高校からの友だちだ。

もう30年以上の付き合いになるというのが、

おそろしい。 


その頃からの友人は何人かいるのだけど、

 “竹馬の友”とわたしが呼ぶのは、 

昨晩十数年ぶりに会った彼のことだ。 


その“竹馬の友”とは高校も部活も同じで、

大学時代のまとまった休みなどには、 

二日に一度は一緒だったほど親しかった。 


当時、私たちがしていたことはと言えば、 

酒を飲みつつ、政治・経済や文学の話で意見交

換をしたり、ときには他の友人も招いて夜を徹

して激論を交わすことだったりした。(“朝ま

で生テレビ”が、始まったばかりだったんです。) 


ひとつ、困ったことがあったと言えば、あった。

“男女を超えた友情”というものは、世間一般では

あまり受け入れられていないことだった。 


それぞれの彼氏彼女よりも一緒にいるものだ

から、ヤキモチを焼かれるのが常で、 

「ヤキモチ焼かれてもねぇ・・・そういう

気持ちは1ミリたりとも無いしねえ。」 

「そうそう、これっぽっちもそういう気はない

からなぁ。」と、二人とも、それ以上言いよう

がなく、あまり気にも介していなかった。 


男女関係というのはとても限定的だし、 

常にややこしい。 

わたしとその“竹馬の友”には、 

恋愛のような“揺らぎ”はなく、 

兄弟みたいな強固な感じというか、

とにかく“恋愛以外の絆”で結ばれていた。 


ひさかたぶりの席で、それぞれの仕事の軌跡な

ど一般的な情報交換が終わったとき、彼はかつ

てわたしが話していたというフレーズを引用した。 


 「人間には、○×△をつけなきゃいけない。」 


聞き覚えがある。わたしが言ったっけ?

遠い記憶を呼び覚まし、そのフレーズのルーツを思い出した。 


わたしは大学時代、地方のテレビ局で4年間ア

ルバイトをしていた。そこで、仕事の哲学とい

うか、考え方を指南されていたことがあった。 


自分なりの美学を見出し、確立することの大切

さを教えてもらった。上司のやっていることを

鵜呑みにするのではなく、自分なりに

「こうあるべき」

「これはダメ」

というふうに、審美眼をつけていくようにせよ、

という意味だったと思っている。 


仕事の美学など、考えも及ばない大学生にして

みると、そういう訓練はありがたかった。 


でも、それは駆け出しの頃の話で、年齢と経験

を積み、今のわたしたちくらいの年代になれば、

部下や関わる人たちには×はださずに、

 ○になるように関わるのが”いい仕事”だ。 


ある時期に適用されるルールは、

ステージが変わればガラリと変わるものが多い。


この話もそうで、ビギナーと経験者では、

やることは真逆なんだ。 



わたしたちの子どもは二人とも今は幼児だ。 


コンピューターやAI(人工知能)といったテク

ノロジーがものすごいスピードで発達し、それ

なしでは何もできなくなるこれからの時代。 


彼らがおとなになったときも、

こういう“仕事の流儀”みたいなことって

いきているのだろうか、と、ふと思った。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

最後は、うちの両親の家でみんなでオロナミンCを飲んでシメました。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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