誰かが、あなたを覚えている
You cross my mind a lot.
〜あなたのことを、よく想い出だします。
最後に会ったのが13年前。高校時代とても仲が良かったアメリカの友人の、私からの短い誕生日への返信だった。
わたし達の暮らしは、毎日さほど変わっていないように思える。なぜなら、日々はその延長線上の中、淡々とした生活や仕事で忙しい。それらを“こなす”ことで精一杯だから、振り返る余裕など、たいていの人にはない。ましてや、それを実感する機会など。
わたしの統計によると、多くの人は、日々のコミュニケーションは業務関連か、家族関係か、何らかの活動を共にしている仲間などの「レギュラーメンバー」としか、密に連絡は取らない。だから、自分はそれ以外の人からは、「忘れられているだろう」と思っている。よほど有名人とか、頻繁に飲み会をしているような人以外は。
けれども、実際のところ、そうではないということが、わたしの最近の調査結果で分かった。
ひととは、二種類に分かれる。
明らかに、ひとと一緒にいることを好むひとか、一人でいることを好む(もしかしたら、本当は他者といたくても、どうして良いかわらかない、面倒、その他いろいろな理由で、ひとりでいる)ひと。「ひとりでいる時間」は大切だけれど、ずっとひとりでいることを、心から一生好む人は、いない。
かのWalden Pondを書いたソローだって、庵で暮らした一休和尚だって、一時的にそこに住んだ結果、その暮らしの内容を伝えたくて書き物を残している。結局、人々とシェアしたいのだ。いずれも、それを書き残す術を持っている場合だ・・・
ひとは、ひとに、憶(おぼえ)えられたい生き物だ。そう、ひとは「憶えられていたい」のだ。
リジェンド(個人的英雄論)・・・
それが自分の子供だけであったとしても、仕事仲間であったとしても、ひとは、ひとに、憶えていてもらうことを望んでいる。
亡くなってから久しいが、今だよく語られるP.Fドラッカーの究極のメッセージは「あなたは“何をもって”憶えられたいのか」だったという。時に難解な彼の論文や書籍は、一般の人には読みづらい。一部の経営者や経済学者の特許のように思われている。が、そのメッセージをドラッカーの研究者であり、翻訳者である上田先生の講演を今から20年ほど前に聞いた時、ドラッカーのメッセージは、とても易しいものなのだと理解した。
「あなたは何をもって、憶えられたいのか?」
それが、究極のドラッカーの言いたいことだったらしい。
あなたの作った地下鉄は今も人が乗り、あなたが拓いた道を多くの人が通っている。あなたの子どもはあなたのことを親として覚えている。
わたしは、名もない一介の人間でいい。
ただ、自分が「何をもって憶えられていたいのか」ということは、日々覚えていたい。なぜなら、あなたが口を開くまで聞けないかもしれないが、あなたのことを憶えている人は、必ずいる。有名人、政治家、経営者でなくとも、そう。
「You cross my mind a lot.」わたしも、昨日友人から聴くまで、知らなかった。
人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。
あなたは知らなくても、誰かが必ずあなたのことを覚えています。
0コメント