洗濯物と選択
出張から帰ったら、こんもりした洗濯物の山。数秒ジッと見て、確認した。それは、わたしがたたむべき、わたしの洗濯物だった。うちでは、4歳の末娘を除き、各自がそれぞれの服をたたむことになっている。わたしのぶんだけ、残されて小さな丸椅子の上に小山を作っていたのだった。今度は数秒かからず、イラっとした。さらに少ししたら、それは寂しさになった。
寂しさを押し隠すかのように、わたしは家の中を速いペースで動き回った。スーツケースを広げ、出張で出た新たな洗濯物をカゴに入れに行ったり、冷蔵庫に冷やしてあるミネラルウォーターを取りに行ったり。心なしか、何だか荒い動きをしている自分に気づく。そして、窓辺を通った時、ふと「世の中のおとうさんって、こんな感じなんだよな・・・」という考えが浮かんだ。そうすると、ちょっとだけ妙な安心というか、心細さが薄らいだ感じがしたけど、同時に“わびしさ”が“寂しさ”にとって変わった。
寝室に行くと、末娘はベッドで深い眠りに落ちていた。その寝顔は、わたしにとって最高の“疲れからの解放”をもたらす「天使の寝顔」だ。その寝顔を見ているうちに、すっかりわたしは落ち着いてきた。そうしてみて、あらためて先ほどの洗濯物の山を思い出した。落ち着いて離れた距離にある洗濯物の山を思い出すと、それは“単なる洗濯物の山”だった。もっと正確にいうと、それは「洗浄され乾燥させることで、体臭や汗を除去した状態の複数の衣服がランダムに重なり合っている」物質。その物質だけが存在しているのだけれど、私の中でその存在を見た数秒後、事実とは必ずしもいえない、意味づけをして身体に反応が出ました。最後は、わたしを「世の中のお父さん」と同化させて「わびしさ」を感じることにまで成功したといえましょう。
そこまで考えて、似たような話は「世の中の働くお母さん」にもあることを思い出しました。朝起きてから家事をして、急いで仕事に出かけてからずっと忙しかったのに、ヘトヘトになって帰ってきたら、台所には食器が山ほどあって・・・というような話です。この話からは、孤独感や、切なさ、大変さ、哀れさ、といったものを感じる一方、不思議とわびしさは感じられないのです。(あくまで主観ですが)きっと、“家庭におけるわびしさ”は男のもので、“家庭における孤独感”は女のものなのかもしれません。
ちょっとだけ不思議なのは、わたしは自分を「世の中の父親」と重ね合わせてわびしくなっていたことに、これっぽっちの不思議も感じていなかったことです。女であるにもかかわらず・・・・・・。そして、そのことについて熟考して「そういえば、女の人にも似たような思いをすることが・・・」とやっと思いつくくらい、女性の悩みに鈍感でした。というか、私の潜在意識では、きっと「わびしさを感じる方が、孤独感を感じるよりも、まし」もっといえば「女であることより、男(の方が、大変じゃない)」という考えていたのだということがわかりました。考えていたというより、考えよりも先に「選択していた」ということなんでしょう。そして、「何の罪も意味もない」服の山を見て、一人で怒り、寂しくなり、わびしくなっていた、ということだったようです。
理由はいろいろ思い当たりますが、またそれは別な機会に話すとして、中立的な事実に対して意味づけをして、それを怒ったり、寂しがったり、わびしがったり、と、いろいろとやっているもんなんだなあ、とあらためて自分が知らないうちに参加しているゲームのことが、ついに私にバレた、という経験をしたお話でした。カラクリがわかると、ひとって、そんなに怒ったりしないで済むのだと思うので。
夏には肝試しやお化け屋敷、怪談などが楽しまれますが、もしかすると、わたしたちは自分にも気づかれずに、色々なことに意味づけをしてそれにより感情の起伏を経験する、ということのほうが、もっと恐ろしいことかもしれませんね。
今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。
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