幸せの条件
“幸せな女性”であることには、敵わない。最近、とみにそう思うのです。
例えば、キャリアで成功していても、お金に不自由しなくても、美貌や若さを持っていても、幸せを常に感じることができる心の状態にいなければ、幸せとは言えない。 一方、さほど経済的に余裕がなくても、人に誇れる学歴や、成し遂げたと胸を張れること、他の人から羨ましがられるようなことがなくても、幸せな人はいる。
幸せは「こうなったら得られる」というものではない。条件達成項目シートがあって、8割が該当すると“ほぼ幸せでしょう”というといえるものでもない。幸せは、心の状態で、しかも、それは「おおよそ、どのような環境下にあっても、自然に維持できる」ものを示すものだ、と、わたしは思う。だから、“幸せは奪われない”と言われるし、“幸せは私たちの内側にあるのだ”と言われる。
そういうわたしも、割と最近まで”幸せ”について、それほど明るくはなかった。ましてや、30代の前半などはもってのほか。ちょうど自分の探索を始めた頃で、今のわたしと同人物とは思えないほど、ステレオタイプの観念の持ち主だった。そういえば、そのことを彷彿させるある出来事があった。とあるヒプノセラピストのセッションを受けるために、当時住んでいた札幌から、わざわざ飛行機に乗って都心からかなり外れた場所にある、コーポの自宅兼セッションルームに出向いたことがあった。そのセラピストを選んだのは、わたしとバックグラウンドが似ていたから。外資系金融でNY勤務だったことがある男性セラピストが、スピリチュアル系に行ったのが良くて、その人のセッションを受けたかったのだった。
なんの話だったか「幸せの定義」に話が及んだ時に、わたしは待っていましたというように、幸せについて満たされるべき分野と条件をスラスラと述べたのでした。それらは、常にわたしが意識して努めていたことでしたし、年初に決める“今年の目標”でもありましたから。その時のセラピストとのやりとりを、今も忘れることができません。
セラピスト「では、お聞きします。小さな花を見て、美しいと思えないお姫様と、貧しいけれども、小さな花を見て、美しいと思える女性では、どちらが幸せでしょうか?」
わたし「そりゃ、小さな花を見て美しいと思えるお姫様に決まっているでしょう。」
セラピスト「いえ、だから、どちらかです。」
わたし「え?どうして、どちらかでなければいけないんですか?いいじゃないですか、金持ちで、美しい繊細な心を持った人がいたとしても。」
絶句しているセラピストを見て、わたしは思っていました。「外資金融の職を手放して、貧乏癖がついちゃったんだわ、この人。信念を入れ替えたほうがいいのに。」
今思えば、どっちもどっちです。そのセラピストの方は経済的成功をある意味否定し、「AかBか」という二者択一をしていたようですし、一方、わたしは「経済的成功がなければ幸せの条件を満たさない」と思っていましたから。
わたしの住まいは、軽井沢の林の中の別荘地にあります。小学生の頃から(立派な)家がとても好きだったわたしが、様々な困難を乗り越えて4年前に建てたその家は、ほぼ全ての夢が叶ったものです。樹齢200年以上の木があり、リスが毎日のように遊びに来る広い庭を見ながら、天井の埋め込み式BOSEのスピーカーから流れるジャズを聴き、自分デザインの白くて広いキッチンで料理をするときは、その世界観に浸り満ちた気分になります。客人たちは、そんなわたしを“幸せ”と呼びます。確かに、わたしは幸せです。でも、それは、素晴らしい環境の、素晴らしい家に住んでいるから、ではありません。なぜなら、わたしはそこに住んでいなかったとしても幸せだったと思うのです。逆説的ですが、だからこそ、こういう家に住んでいるのではないか、と思うのです。
昔、村上龍のエッセイ集で「幸せな過去の思い出が、女をジゴロから救う」というようなタイトルのものがありました。それは、過去のパートナーと本当の幸せを経験したことがあるハイソな女性は、モナコあたりによくいる伊達男に騙されることはない、という話だったと思います。それは実に本当だ、と、思うのです。
今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。
「違いの判る男、ゴールドブレンド」ってのも、ある意味、その類の話をしていますね。
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